阿部 正弘(あべ・まさひろ)

生没年 1819.10.16~1857.6.17
名前 正一、剛蔵、主計、裕軒
官位 伊勢守

1836(天保7)年12月福山藩主を継ぐ。1840年就任した寺社奉行で下総中山法華経寺僧侶女犯事件を上手く裁き評価を上げた。1843年には25歳で老中となる。

ペリー来航に当たって、譜代大名・外様大名から庶民に至るまでに広く意見を求めた。これまで譜代大名が独占してきた政策決定を外様大名にも広げたことは江戸幕府の崩壊を早めたという考え方もあるが、皆が国家を考えるようになったとも評価出来る。ペリー再来航時には日米和親条約に調印。意見は鎖国・攘夷寄りの意見が多かったと思われるが、開国寄りの政策を進めた。

が、井伊直弼を筆頭とする譜代大名(溜間詰)の反感を買い、1855(安政2)年10月に溜間詰大名である堀田正睦に老中主席を譲り融和を図った。その後も数々の改革政策を採ったが、1857年病のため死去。

岩瀬忠震や勝海舟の登用、講武所や洋学所、長崎海軍伝習所の設置は阿部正弘の功績である。また、徳川斉昭の海防参与採用や、島津家の娘である篤姫を(近衛家経由で)徳川家定の正室に持ってくるなど、繊細な政治バランスが必要な江戸時代末期において卓越した一手を打っている。