井伊 直弼(いい・なおすけ)

生没年 1815.10.29~1860.3.3
名前 鉄三郎
官位 玄蕃頭、掃部頭

井伊直弼だけはよく分からない。

井伊直中の十四男。家督相続の目は当然無く、埋木舎と呼称する場外の屋敷にて文芸三昧の部屋住み時代を送る。

長兄・直亮の世子直元が病死し、井伊家中には男子がいなかったために世子となる。1850年、長兄の死によりまさかまさかの彦根藩主となった。外様大名にも意見を問う阿部正弘に反発しながらも開国を主張、攘夷派の徳川斉昭と対立する。同時期、将軍継嗣問題も発生し、直弼は徳川慶福を推し、一橋慶喜を推す一橋派と対立を深める。

そんな中、1858年大老に就任。勅許が無いまま日米修好通商条約締結を断交する。これに世論は激高、戊午の密勅が水戸藩に下されるが、これに直弼はキレた。朝廷が諸藩に直接指示命令を与えることは、徳川幕藩体制の全否定だからである。密勅の首謀者と断定した梅田雲浜を捕縛し、安政の大獄が開始された。100名以上の首を飛ばす強権発動で、反対派の甚大な恨みを買うことになる。一橋派の諸大名も登城禁止・謹慎を濫発し、強権政治の完成をみた。水戸藩には戊午の密勅の返納を迫ったが、水戸藩も混乱、過激派藩士が脱藩に至る。1860年3月3日、登城最中に桜田門外で水戸脱藩・薩摩脱藩の浪人に襲撃を受け首級を取られる。鉄砲を一撃食らっており、剣術で反撃する間もなかったようだ。加えて、警護の武士も雪で濡れないよう刀を柄袋で覆っており、それでも一部を除いてよく戦ったが、それでも井伊直政以来の赤揃えの武名は地に落ちた。流石に藩主が討ち取られただなんて恥ずかしすぎて発表出来るわけがない。井伊家は喪を秘す羽目になる。同月30日に大老罷免、閏3月30日に発喪。1862年には安政の失政を幕府にとがめられ彦根藩は10万石の厳封を受けることになる。

井伊直弼は開国という正しい方向に日本政治を持っていった功績者という見方も出来れば、使わなくてもいい強権で江戸幕藩体制に修復不可能な打撃を与えた政治無能者という評価もある。大老として自らを襲撃する噂は情報として押さえていたのに無視しているのも謎なところだ。井伊直弼がカッコ良く書かれる作品では、混迷して収集がつかない幕末政治体制において、自らが犠牲になって批判を一手に受けて火中の栗を拾って相討ちした形で書かれていることが多い。ただ、井伊直弼の政治姿勢は幕府大事・譜代大名中心の徳川体制死守の観点が強く、開国策を採ったのは結果論という見方が強い。取った政策は正しかったが、動機は善か疑わしいし、私心は無かったかというのも微妙と言える。…間違った政策を選ばれるよりマシだが。

なお、彦根市内では井伊直弼は名君として支持されている。勉強に励み、善政を施いた殿様が非難される筋合いはないのである。