板垣 退助(いたがき・たいすけ)

生没年 1837.4.17~1919.7.16
名前 猪之助、乾退助、正形
官位

高知の上士の家に生まれる。後藤象二郎は幼なじみである。幼い頃の暴れん坊ぶりは手が付けられないほどだったが、吉田東洋の説諭で改める。吉田東洋のもとで免奉行、江戸藩邸付を経験する。江戸では騎兵術やオランダ式兵学を学んだ。

その後、中岡慎太郎に感化され倒幕派急先鋒となる。山内容堂とは相容れない思想だったが、お気に入りの一人だったため不問とされた。西郷隆盛と薩土倒幕の盟約を結んでいる。藩の兵制改革、訓練を行っていった。退助のこのフリーダムに倒幕を土佐で行えたことは、大政奉還後に結局武力討伐となった後での土佐藩の地位確保に大きく寄与した。退助の軍人としての才能はすさまじく、東山道先鋒総督府参謀として甲州鎮圧や会津戦争で活躍した。会津にて武士層と農民・町民層の乖離を目の当たりにしたことが後の自由民権運動につながったとされる。

明治6年の政変で参議を辞職。民選議院設立の建白書を提出し、自由党党首となった。自由民権運動の旗手となり活躍する。暴漢に襲われ叫んだとされる「板垣死すとも自由は死せず」の名言は本人のものではないが有名である。