榎本 武揚(えのもと・たけあき)

生没年 1836.8.25~1908.10.26
名前 釜次郎
官位

父は伊能忠敬の内弟子だった榎本園兵衛武規。昌平黌や中浜万次郎の塾で学んだ。長崎海軍伝習所の2期生として勝海舟に学ぶ。その後オランダに留学し、モールス符号を日本に持ち帰る。1867年、幕府がオランダに発注していた開陽丸で日本へ帰国する。 戊辰戦争の時、榎本武揚は幕府艦隊を指揮出来る立場であった。江戸城無血開城の時は品川沖の制海権を確保し、勝海舟の無血開城を支援している。江戸城開城後、徳川家の新当主である徳川家達を駿府へ送っている。その後は新政府への艦艇引き渡しを拒否、榎本艦隊は北へと向かった。仙台を経由した後、1868年、蝦夷・森町に上陸。英仏に新政府と別の国家と認めさせ、局外中立を要請し認めさせている。独立宣言を行い、日本は南北朝以来2つに割れたのである。

蝦夷共和国では士官以上は入札で決定し、先進的な国家であったが、箱館戦争は抵抗虚しく敗れた。東京で投獄されたが、箱館戦争で向かい合った黒田清隆を中心に助命論が大きくなり、結果助命された。

助命後は黒田清隆に使われ、千島樺太交換条約の締結を実現している。