江藤 新平(えとう・しんぺい)
生没年 | 1834.2.9~1874.4.13 |
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名前 | 胤雄 |
官位 |
佐賀藩の手明槍の身分に生まれる。戦時は槍を持って駆けつけるが平時は無役という佐賀藩の階級であった。新平はその才覚で藩校弘道館で頭角を現す。1850年、枝吉神陽の主催する義祭同盟に参加、脱藩して志士活動を行うが、芳しい成果は得られず帰藩。「京都見聞」を提出し金福寺に永蟄居となった。
戊辰戦争で東征大総督府軍監として政府軍に参加。その後新政府に出仕、東京遷都を建白する。1872年司法卿となり、司法制度確立に励む。長州閥の汚職を検挙しまくり恨みを買う。明治6年の政変で下野。佐賀に帰り没落した不平士族に担ぎ上げられる。佐賀の乱の勃発である。島義勇ともども各国の士族に援護要請に行くも結果は芳しくなく乱は失敗。自ら整えた制度に乗っかり顔写真で全国に指名手配される。土佐で捕まり、弁護士なし審議もない暗黒裁判の結果晒し首となった。政敵・大久保利通は「江藤の醜態無様なり」と嘲笑を書き残しており、大久保の人間味と江藤の正当性を伝えるエピソードになっている。