大隈 重信(おおくま・しげのぶ)
生没年 | 1838.2.16~1922.1.10 |
---|---|
名前 | 八太郎、信義 |
官位 |
佐賀藩士大隈信義の長男。大隈家は萩野流砲術師範を務める家柄であった。
弘道館で学び、のちに校風が合わず江藤新平と一緒に蘭学寮へ移る。藩内の勤王結社・義祭同盟に参加する。その後長崎で藩の英学塾を創設し、経営を任される。大政奉還前に脱藩し、藩主・鍋島直正に兵を率いて上洛することを熱弁するもスルーされる。結果、雄藩でありながら明治維新のビッグウェーブに佐賀藩は見事に乗り遅れる。が、長崎奉行所の機能を引き継いだがために処理せざるをえなかった浦上信徒弾圧事件に副参謀として参加、キリスト教徒処刑を英国公使パークスらの抗議を無視して断行、「独立国の権利であって他国が干渉される謂れはない」が理由で、抗議をかわしながらも処理をやり遂げた。そんなこともあり、佐賀藩の卓越した西洋知識は明治政府に必要とされ、新政府には徴士として出仕する。参議となり鉄道・電信分野で頑張った。明治14年の政変で下野。立憲改進党党首となる一方で、後の早稲田大学となる東京専門学校を創設。板垣退助と憲政党を結成し日本初の政党内閣である隈板内閣を組織する。1889年、外務大臣を務めていたときに条約改正問題で福岡・玄洋社社員に自爆テロを仕掛けられ右足を失う。重信はテロリストを評価し、「これで血の巡りが良くなった」と言っていたという。やはり大物は違う。
その後は大学に専念していたが、1914年第二次大隈内閣を組織し、第一次世界大戦対応を行う。この際に対華二十一ヶ条要求を出しており、国内外当時から今に至るまで叩かれている。1922年早稲田で死去。国葬が営まれた。