大村 益次郎(おおむら・ますじろう)

生没年 1824.5.3~1869.11.5
名前 宗太郎、蔵六、永敏
官位

町医者・村田考益の子。梅田幽斎、広瀬淡窓に師事後、22歳で緒方洪庵の適塾に入る。長崎でシーボルトに学び、適塾では塾頭となる。1849年に開業医となるが、こちらはあまりうまくいかなかった。1853年宇和島藩に招かれ、上司待遇の士籍を与えられる。兵書翻訳、軍監製造など宇和島藩の開明政策の多くに従事する。参勤交代で江戸入りすると、蕃書調所の助教授となっている。

1860年、桂小五郎や周布政之助の働きかけもあり、長州藩に迎え入れられる。イギリスへの留学生派遣(長州ファイブ)の尽力、その後は三田尻軍港化、下関砲撃事件の講和交渉などに関わる。第二次長州征伐では石州口の戦いを指揮、勝利に貢献する。砲撃と共に歩兵を敵陣に肉薄させるような当時の欧米にもない戦術運用を独自に編み出していた。

戊辰戦争時は長州の作戦指揮を監督する立場にあり、その軍事的才能が炸裂した。

上野戦争時は、江戸市中の損害を最小限に抑えるため、彰義隊を上野に誘導。逃走経路まで計算した布陣の上半日で彰義隊を壊滅させている。奥羽北越戦線・箱館戦争でも作戦立案に従事した。

1869年兵部大輔に任じられ、近代兵制の確立を行う。国民皆兵を目的とした徴兵制主張など武士階級から反感を買い、京都滞在中に刺客に襲われ負傷、その傷から大阪の病院で死亡した。

なお、死に際に大阪への4ポンド砲等兵器弾薬の準備を遺言している。西南戦争の予言とも考えられ、実際に西南戦争時に活用されている。幕末が生み出した軍事的天才であり、靖国神社には銅像が建てられている。