勝 海舟(かつ・かいしゅう)
生没年 | 1823.1.30~1899.1.19 |
---|---|
名前 | 義邦、安芳 |
官位 |
旗本・勝小吉の長男。剣を男谷精一郎(次いで島田虎之助)、蘭学を永井青涯に学ぶ。蘭学塾で砲学を教える必要性があり、佐久間象山の下で学んだりしている。ペリー来航時の阿部正弘への意見書には交易で資金を作って海軍を作ろうと説いた。これが開明派幕僚の大久保一翁・岩瀬忠震の目にとまり、彼らに引き立てられていく。
1855年蕃書翻訳所勤務から始まり、その年幕府が長崎に設けた長崎海軍伝習所のトップで学ぶ。安政の大獄で大久保や岩瀬が失脚したこともあり、日米通商条約批准の使節に咸臨丸をつけてわたった際、乗船してついて行くこととなった。1862年、政事総裁職となった松平春嶽により大久保が復帰し、軍艦奉行並となった。坂本龍馬が門弟になったのもこの頃である。神戸海軍操練所を将軍家茂に直訴して開設している。
8月18日政変前後、強権を指向する一橋慶喜と距離が生まれる。この頃初対面となった西郷隆盛に「幕府はもう持たないので雄藩連合を考えた方がいい」とぶっちゃけ話をするに至り、薩摩藩が長州弁護に回るきっかけをつくっている。神戸海軍操練所も池田屋事件・禁門の変で門人を出したことから閉鎖され、海舟は再び不遇の時を迎える。第二次長州征伐で講和せざるを得なくなったときだけ呼び出され長州藩との休戦を実現している。
1868年、鳥羽伏見の戦いで敗れ朝敵となった慶喜を江戸城で迎えることとなった。朝廷への恭順を決意していた慶喜は、撤退抗戦を主張する小栗忠順やロッシュを無視し、海舟に全権丸投げを行った。近藤勇らを甲州鎮撫であさっての方向(失礼)にどけたのち、山岡鉄舟を西郷隆盛に送り事前折衝を開始、徳川家存続と江戸城無血開城を実現した。
その後、徳川家に従い駿府へ行った海舟であったが、新政府の申し入れにより海軍卿を務めるなど働いている。旧幕臣への支援、西郷隆盛の復権など、幕府時代と同じく後処理を積極的に行っている。明治政府における徳川家の窓口となり、慶喜の明治天皇謁見でも一枚噛んでいる。