河井 継之助(かわい・つぎのすけ)
生没年 | 1827.1.1~1868.8.16 |
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名前 | 秋義 |
官位 |
長岡藩士・河合代右衛門の長男。佐久間象山、山田方谷に師事している。ペリー来航の国難に際し、建白書が目にとまり牧野忠雅に抜擢される。が、家中で味方はなくほどなく致仕している。1862年藩主牧野忠恭が京都所司代に任命されるも、幕藩改革に注力すべきと辞退を進言。当初は受容れられなかったもののしばらくして実現された。老中に推挙されたときも同様に辞退を進言するが支藩の藩主牧野貞直を罵倒するという挙に出たためしばらく藩政から遠ざかる。
1864年に公用人に、1865年に郡奉行となる。賄賂禁止、水害地域の不正減免申請の厳格化、賭場や遊郭の禁止など藩政改革を進めた。
財政も好転し、最新武器のガドリング砲を購入、ミニエー銃の全藩士装備など先鋭的な軍制改革を進めた。戊辰戦争をそんな状況で迎えた継之助の選択は武装中立であった。これによって官軍を留め、会津・庄内の赦免を狙ったともされる。が、軍監岩村精一郎はこれを認めず、長岡藩は会津藩側につき奥羽越列藩同盟に発展した。一度官軍にわたった長岡城を奪還するなどよく戦ったが、左膝を負傷、会津へ逃れる登城の八十里越えの最中に死去した。
坂本龍馬以上に司馬遼太郎案件の人物であると言える。戊辰戦争後の長岡藩は河井継之助への怨嗟で埋め尽くされていたようである。墓はその都度倒された。しかし今では長岡の英雄の趣すらある。恭順することをよしとせず、高い理想を狙っており、官軍からするとスルーしていれば毒にも餌にもならず無害で済んだのにという視点がある一方、統一国家を指向するに当たっては武力中立など認められないという考え方も出来る。非合理を嫌った司馬遼太郎が小説にしたことを含め、河合継之助の評価にはその人間の哲学が問われると言えよう。