坂本 龍馬(さかもと・りょうま)
生没年 | 1835.11.15~1867.11.15 |
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名前 | 直陰、直柔、才谷梅太郎 |
官位 |
土佐の英雄といえば坂本龍馬である。
小さい頃は寝小便が止まらず、泣き虫で塾から預かれないと言われる劣等生。姉の乙女が鍛え上げ、日根野弁治の剣術道場に入門してから頭角を現す。剣術で才能を発揮し、19歳で小栗流目録を得た。
江戸遊学に出て北辰一刀流の桶町千葉道場に入門、免許皆伝を受けた。江戸遊学中、浦賀沖にペリーが来航し、龍馬は時代の目撃者となった。
土佐へ戻った龍馬は河田小龍のもとで海外事情を学び始める。一方で親交深かった武市瑞山が立ち上げた土佐勤王党に参加。尊皇攘夷の一志士として長州視察へ行っている。土佐では武市瑞山が吉田東洋暗殺へ向けて暗躍し土佐藩改革をしようと試みていたが、龍馬は脱藩を選ぶことになる。
江戸の千葉道場に身を寄せた龍馬は、勝海舟の門弟となった。攘夷思想の千葉重太郎と勝を斬りに行ったら勝に説かれ門弟となったエピソードで有名だが、実際には松平春嶽の紹介によるものだという。後者の方が凄い気がするが、とにかく龍馬は船操縦の勉強に励み、一方で勝に連れられて幕府の重要人物との面識を広げることになる。神戸海軍操練所設立に尽力したが、後に池田屋事件・禁門の変で塾生が多数関与していたことから反幕の拠点と見られ閉鎖、土佐では土佐勤王党が弾圧され龍馬にも呼び出しがかかる。龍馬はこれを無視、西郷隆盛の引き合いもあり海軍増強が課題となっていた薩摩へ身を寄せることとなった。長崎で亀山社中を設立、日本初の株式会社とされる。その後薩長同盟の必要性を感じた龍馬は中岡慎太郎とこれに尽力、圧倒的根回しの慎太郎に対し、薩摩による長州武器の代理購入、薩摩への米回送などの実績・実利を積み上げる方法で龍馬は攻めていった。薩長同盟は成立。その翌日京都伏見の寺田屋で龍馬は幕府方に襲われる。妻となるおりょうの全裸での注進も功を奏し、龍馬は薩摩藩に保護され鹿児島へと逃れた。この時、小松帯刀の進めもありおりょうと霧島に新婚旅行を行っている。
第2次長州征伐では海からユニオン号にて長州を応援、資金難となっていた亀山社中に土佐藩の援助を入れるウルトラCを敢行、後藤象二郎と坂本龍馬の連携は感情的対立が残っていた上士と郷士の批判をよそに、佐幕に拠りすぎていた立ち位置の是正を図りたい後藤象二郎と、海援隊の運営立て直しを図りたい龍馬はどこ吹く風であった。大洲藩の出資を得たいろは丸は紀州藩に沈められたため、万国公法を盾に紀州藩から賠償金を得た。
武力討伐の方向で一気に進んでいた雄藩において、公武合体が棄てきれない土佐藩は困った立ち位置にいた。後藤象二郎に泣きつかれた龍馬は「大政奉還」を紹介。これに飛びついた後藤象二郎は山内容堂に建言すると一気に土佐藩の藩論となり、容堂によって建白が慶喜になされた。龍馬は本当に慶喜が大政奉還すると思っておらず、その時は武力討伐されれば良いと考えていたようだが、慶喜はこれを受諾した。龍馬は新政府の体制として船中八策を起案。龍馬の名前はそこにはなかったが、「世界の海援隊をやりましょうかな」と発言。その場にいた陸奥宗光が感動しているが、龍馬は本当に政治は好きではなくて船でのりまわるのが好きだったのかもしれない。一方で日に列勢となる幕府において、龍馬は引き続き恨まれてもいた。武力討伐派からも公武合体を結果として実現してしまった龍馬は煙たく思われていた。
京都近江屋で療養中、訪ねてきた中岡慎太郎と協議中襲われて即死した。享年33歳。見廻組の犯行とされるが、新選組犯行説から薩摩藩黒幕説まで様々な諸説が上がっている。本能寺の変と違い、実行犯からして確定されていない状況である。
坂本龍馬は薩長政府で劣勢となった土佐勢のプレゼンス回復で虚像が作られ、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」でその生き様が形作られた面が大きいのは事実である。しかし、尊皇攘夷の土佐藩出身で薩長と交わり、勝海舟の門弟として幕臣とも関わりが深いという交友の広さは幕末を語る上で極めて都合が良い。坂本龍馬を軸にすると幕末を全方位に描けるのである。
大政奉還論も龍馬の考案ではないと散々指摘をされている。が、これは事実ではあるが評価とすべき指標を誤っている。大政奉還にせよ船中八策にせよ、その思想が最も高値となる時期に、もっとも影響力を与えられる人に伝えたのである。商機を見るに極めて敏感だったとしか言い様がない。思想の仕入れは生涯にわたって幅広かった。ジョン万次郎、佐久間象山から横井小楠まで幕末のパイオニアと悉く接点を持っていた。アイディアを横取りする形となった後藤象二郎に何も言わなかった、大政奉還を受容れた徳川慶喜に涙を流して賞賛したなどの一連のエピソードを見るに、基本がお人好しで人当たりが良い好人物だったのだろう。やはり商人気質だったのだ。商業全盛となる近代の魁に相応しい人物なのである。
船好き気質は日本海軍へ、興した商業は三菱財閥へ、船中八策の公議主義は五箇条の御誓文と自由民権運動へとつながった。坂本龍馬の遺伝子は日本近代の広範囲へ受け継がれた。まさに日本近現代史における偉人と言えよう。