島津 久光(しまづ・ひさみつ)
生没年 | 1817.10.24~1887.12.6 |
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名前 | 普之進、又次郎、君輝、忠教 |
官位 | 左大臣 |
10代薩摩藩藩主島津斉興の子。島津斉彬の異母弟。鹿児島で生まれ育ち、一門家の重富家を相続する。お由良騒動で斉彬と対立するが、斉彬の家督相続を持って終結している。1858年、斉彬が急逝。遺言をもって久光の長男・茂久(忠義)が家督相続する。久光は、家中の尊攘派家臣の脱藩計画を賞賛して取り込みに成功。反論を公武合体に統一し国父として遇されることとなった久光は1862年に上洛する。上洛時に寺田屋の過激派家臣を粛清し幕閣の賞賛を得た後、江戸へ勅旨と共に下向。一橋慶喜の将軍後見職就任と松平春嶽の政事総裁職就任を実現させる。帰り道、生麦事件を起こし薩英戦争を引き起こすことになる。薩英戦争は薩摩藩内で西洋列強の軍事力を知る機会となった一方、英軍も薩摩人の畏れを知らない蛮勇としつこい軍事力を知る契機となり、日本はアンタッチャブルなことを知るに至った。公武合体・雄藩連合の実現として具体化した参与会議は一橋慶喜のプッツンによって瓦解、推した慶喜から全否定され島津久光は帰国した。事ここに至り、自らを地五郎と批判して認めない兄のお気に入り・西郷隆盛に任せて運営せねばならない膠着状態となり、流刑先から渋々呼び戻す。8月18日の政変では会津・一橋に組みして長州と戦ったものの、薩摩藩は薩長同盟・第二次長州征伐のサボタージュへと動き武力討伐へひた走った。
明治維新後の久光は、廃藩置県・欧化政策が悉く気に入らず、薩摩藩出身者は機嫌取りにパワーをつかうこととなる。が、せいぜいが花火を上げて憂さを晴らす程度しか出来なかった。心で納得はしていなかったが頭ではどうにもならないことを判断出来ていたのだろう。鹿児島は久光の意向もあり独立国家めいていたが、西南戦争で中立しながらも西郷軍が敗れて後は日本に組み込まれていった。