徳川 家定(とくがわ・いえさだ)
生没年 | 1824.4.8~1858.7.6 |
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名前 | 政之助、家祥 |
官位 | 権大納言、右近衛大将 |
父は12代将軍徳川家慶。幼い頃疱瘡にかかりその後遺症で心身ともに障害が残ったとされる。妻も鷹司政通の養女任子(ただこ)、一条忠良の娘秀子と相次いで死亡したため、丈夫な女性を御台所にと迎えられたのが近衛忠煕の養女敬子で、その実は島津忠剛の娘にして島津斉彬の養女であった篤姫である。
ペリー来航後、日米和親条約締結時の将軍であり、米国総領事・ハリスを江戸城で引見している。将軍としての公務はこのハリス引見がほぼ唯一の公務である。元来病弱であったため将軍継嗣問題が勃発し、徳川慶福と一橋慶喜の間で諸大名が対立した。大老・井伊直弼が日米修好通商条約に無勅許締結するなか安政の大獄を始めた頃に死去。
NHK大河ドラマで堺雅人が真田信繁の前に「篤姫」で好演したのが徳川家定であった。「プリンセス大河」の異名を取った同作では英明な将軍という設定であった。徳川家定が一番輝いていた1年であっただろう。