11代将軍・徳川家斉の子。1837年家斉の隠居を受け将軍宣下。水野忠邦の登用による天保の改革、阿部正弘の老中首座採用、水戸家から徳川斉昭の七男・七郎麿を一橋家に養子縁組する(徳川慶喜)など重要な判断が多い。病床でペリー来航を受け対外政策は徳川斉昭に諮ることを申しつけ死去。