徳川 斉昭(とくがわ・なりあき)

生没年 1800.3.11~1860.8.15
名前 虎三郎、敬三郎、叔寛、子信
官位 左近衛中将

水戸藩第7代藩主徳川治紀の三男。1829年兄第8代藩主斉脩の養子となり9代藩主となった。この家督相続の際に将軍家斉の子を迎える動きがあり、このときの保守派と改革派の対立は明治維新までずっと水戸藩内で引きずることになる。

藩主となって後は藩政改革に邁進。藩士から上書提出を許可し、藤田東湖や会沢正志斎の登用を行う。軍制の西洋化を断行し、新田開発や租税の合理化などの農村改革を促進した。1841(天保12)年藩校である弘道館創建。斉昭は水戸光圀をモデルにしていた節があるが、寺院整理施策では儒学を真に受けすぎた斉昭は寺院破却を、葬式の仏式から神式への変更促進を行った。改革は急進的であり、一部は突出していた。幕府は1844(天保15/弘化元)年長男・徳川慶篤への家督相続を強制した。

が、時代は対外政策に通じた徳川斉昭の登用を要請した。1849年、阿部正弘の老中主席就任を受け、藩政参与に任じられる。1853(嘉永6)年には海防参与に任じられた。斉昭は列強諸国の軍事力を十分把握していたが、日本の独立を維持するには攘夷しかないという大義名分論に拠っていた。そこで提言を行ったのが軍備を整える間交渉を先延ばしする「ぶらかし論」である。が、日米和親条約は締結され、1857年海防参与を辞任する。

南紀派である井伊直弼が大老就任し、1858(安政5)年に日米修好通商条約が無勅許のまま締結されると、2日後に斉昭は井伊直弼を非難弾劾。不時登城を行う。急度慎みに処されるが、朝廷からの勅諚が水戸藩に下ると、朝廷の幕政干渉に井伊直弼が激怒、斉昭に国元永蟄居が命じられた。

水戸藩の改革派は井伊直弼の専横に憤り、桜田門外の変につながることになる。井伊直弼が水戸藩浪士に殺された同年に斉昭は水戸で死去。死去11日後に幕府から永蟄居が免じられている。

水戸藩は幕末におけるアーリーアダプタであり、水戸学以来の尊皇もあり思想上はぶっ飛んだ先端を行っていた。しかし、藩内抗争があまりにも激しく、明治維新においてイニシアティブを自ら取ることは無かった。しかし、半分が思想で世間を焚きつけるスタイルのほうが御三家の水戸藩には都合が良かったのかもしれない。水戸藩の尊皇は、水戸藩出身の最後の将軍が錦旗の御旗で戦意喪失する形で達成された。久々の朝敵を子孫から出すとは徳川光圀も想定の範囲外であっただろう。