中岡 慎太郎(なかおか・しんたろう)
生没年 | 1838.4~1867.11.17 |
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名前 | 福太郎、光次、石川誠之助、大山彦太郎、横山勘蔵 |
官位 |
土佐北川郷の庄屋の家に生まれる。子供の頃より学問が出来将来を渇望された。18歳の時武市半平太の道場に入門している。20歳で庄屋見習いとなり、施しを行い尊敬を受けた。
24歳にして土佐勤王党に加わる。しかし、吉田東洋暗殺後警戒し始めた山内容堂により勤王党の弾圧が開始されると、土佐に見切りを付け脱藩、長州へ奔り長州藩士同然の活躍を行う。禁門の変にあたっては長州藩内の警備に努める。攘夷・倒幕を主張する中岡慎太郎は薩長同盟という当時の状況からするとまず実現不可能な会盟に動き出すこととなる。禁門の変を経て薩摩・長州の感情的対立は修復不可能になっていた。神戸海軍操練所を失い薩摩へ厄介となっていた坂本龍馬と意見が合致し、二人は薩長両藩の交渉にあたる。1866年、薩長同盟が成立した。
その後も精力的に活動を行い、第二次長州征伐においては長州側で戦う。土佐の先鋭的上士層である乾退助らと土佐藩の倒幕派の形成を行い、陸援隊の結成に動いた。公家界隈での佐幕派切り崩しのため岩倉具視の登用を進言するなど、志士の中での活動量は圧倒的だった。
基本は武力倒幕派ではあったが、坂本龍馬~後藤象二郎~山内容堂ラインの大政奉還論にあたっては薩長両藩との調整に努めた。一方で、大政奉還失敗時に備え薩土盟約を結び倒幕の準備を進めていた。そんな背景もあり、大政奉還は実現された。
京都・近江屋で坂本龍馬と密談中、刺客に襲われる。龍馬と異なり即死はしなかったが、事件の状況に関する証言を残し襲撃2日後に死去。
幕末最大の実務家である。薩長同盟もこの人の圧倒的な根回し量がなければ成立しなかっただろう。坂本龍馬が利益誘導や一喝で最後の一押しをしているが、最終決定を覆らないようにするその他事前準備があってこそのものである。庄屋という大勢の意見を集約しコンセンサスを得る農村での経験あってのものだろう。意見集約が出来る中岡慎太郎と、条件闘争に長けた坂本龍馬のコンビは幕末最強だったと言える。