プチャーチン(Putytin, Evifimii Vasilievich)
生没年 | 1803.11.7~1883.10.16 |
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名前 | エフィム・ワシリエヴィッチ・プチャーチン |
官位 |
サンクトペテルブルク生まれ。海軍士官学校卒業後、海軍へ。ニコライ一世の東進・南下政策に伴い、日本との交渉を拝命。
プチャーチンはペリーと異なり正攻法で交渉し、長崎へ来航している。幕閣の一部では横紙破りなペリーのアメリカを嫌い、ロシアとの交渉優先論もあったが、結局はアメリカの砲艦外交に負け(ペリーは日本を良く研究したいたということだ)、日米和親条約の締結が先となった。
日露和親条約締結のために下田来航中、東海地震が発生し部下に使者も出てディアナ号は沈没している。西伊豆の戸田で江川太郎左衛門と協力し西欧船を建造し、これで帰国している。これは日本における初めての洋式帆船建造経験であり、日本の船舶界への寄与が大きかった。その後、日露修好通商条約の締結も行っている。これらの功績で海軍大将に昇進し、伯爵となった。帰国後は文部大臣や参議院議員を務めた。