ペリー(Matthew Calbraith Perry)

生没年 1794.4.10~1858.3.4
名前 マシュー・カルブレイス・ペリー
官位

海軍大佐クリストファー・ペリーの三男として産まれる。海軍一家で、海軍軍人となる前提で育てられた。1809年、海軍に入隊。英米戦争、ロシア遠征で活躍。軍事的功績だけでなく、海軍工兵隊や海軍兵学校の改革、蒸気機関線でのデータ収集など活躍は多岐にわたった。

アメリカ国内ではアジアと国交を開けとの世論が高まり、ペリーが東インド艦隊司令官となった。日本との交渉に際し、大統領の訓令は「断固とした態度が必要だが、なるべく平和的手段にとどめよ」だった。ペリーは日本を良く学習し、黒船として浦賀に就航。砲艦外交を展開したが、その実戦争は歯止めかけられてたと言える。いったん翌年の回答を待つとして引き上げ、1854年再び就航、日米和親条約の締結に成功した。これらは日米貿易を期待しいたアメリカ世論からすると成果とは言えなかった。だが、日本からすると恫喝外交でなければ開国していた可能性は低いと考えられ、ペリーは本当に良く日本を研究していたと言える。

帰国後、『日本遠征記』を著した。