堀田 正睦(ほった・まさよし)

生没年 1810.8.1~1864.4.5
名前 佐源治、正篤、見山
官位 相模守、備中守

1825年佐倉藩主となる。1841年水野忠邦によって老中となるが、天保の改革の頓挫と共に水野忠邦と一緒に市客死、藩政に専念する。蘭方医学の佐藤泰然を招いて私塾順天堂が開かれたのはこの時期である。

1855年、阿部正弘による外様大名への幕政関与への対処策として、溜間詰大名から堀田正睦が老中に選ばれる。日米修好通商条約締結に苦労することになる。1858年、条約勅許のため上洛するが攘夷は公家の反対により勅許は降りなかった。が、大老に就任した井伊直弼が無勅許で条約締結を強行、将軍嗣子問題も相まって安政の大獄へと進んだ。

堀田正睦は当初南紀派だったが、その後一橋派に転じていた。そのこともあり登城中止となり、1862年には老中時代の不届き有りということで永蟄居、1864年死去。