横井 小楠(よこい・しょうなん)
生没年 | 1809.8.13~1869.1.5 |
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名前 | 又雄、平四郎、時存 |
官位 |
肥後藩士の次男に生まれる。藩校時習館でひたすら学ぶ。1837年時習館の塾長になり、1839年江戸へ遊学するも酒乱事件で帰藩命令が下る。
その後、家老長岡監物の後援で実学党を結成、財政赤字で悩む肥後藩において藩政改革を試みるが、時習館の支配している保守派の儒学者が学校党を結成、筆頭家老松井山城と組み実学党を妨害した。このほか勤王党もあり、肥後藩は反論の統一の目処が立たない状況だった。1844年徳川斉昭の処分と同時期に長岡も失脚、翌年長岡と絶交を宣言する。勤王党の開国論に影響を受け、日米協調の富国強兵策を提唱した。
越前藩士の小楠堂滞在がきっかけで、福井藩から賓客として呼ばれ福井藩の藩政改革に携わることとなった。安政の大獄時も「富国」「強兵」「士道」の国是三論で藩論をリード、春嶽不在の福井藩を支えた。春嶽が政事総裁職につくとそのブレーンとなり、公武合体施策を進める。これに肥後藩勤王党が目を付け刺客を送ることになる。刀を持っていなかったため越前藩邸に却って戻るが刺客はなく家主は死去。肥後藩はこれを士道忘却の罪で士籍剥奪処分を行っている。福井藩の政治活動は大きな打撃を受けた。
蟄居し、訪ねてくる志士に数々の助言を行った。王政復古の大号令後、岩倉具視により小楠の新政府入りが要請されるが、肥後藩は猛反対。紆余曲折を得手さ如となったが、京都で刺客に襲われ死去。61歳であった。
「公共」概念実現のため、儒教をベースにした仁政を念頭に、実践的朱子学「実学」を提唱した小楠には、勝海舟、坂本龍馬、由利公正、元田永孚ら広く影響を与えた。