吉田松陰 吉田松陰(よしだ・しょういん)

生没年 1830.8.4~1859.10.27
名前 瓜中万二、松野他三郎
官位

杉百合之助常道の次男。その後、山鹿流軍学師範を務める吉田家に養子入りする。5歳の時に養父吉田賢良が死亡し、藩命で家督相続する。叔父・玉木文之進が後見となり、本当に厳しく指導した。そのおかげもあり、8歳で明倫館で教授見習いとなり、10歳で講義を行っている。藩主毛利敬親の前で『武教全書』の「戦法篇」を論じている。その後、九州各地や江戸で学問を深めていった。1851(嘉永4)年12月、東北への遊学申請を受容れられ通行手形がなかなか出ない状況で、松蔭は藩外の友人との待ち合わせ期日を優先し手形なく藩を出てしまう。法律よりも約束を守るという人間の根本道徳を優先するべきという考えに拠っていた。家禄没収・士籍抹消となったが、実父の「育」(公的な居候)あつかいとなり、更に10年間の諸国遊歴が許可されている。

ペリー来航を目撃し、米国の国書を受け取った幕府を批判。が、海外事情をこの目で見ようという願望が強くなる。ロシア船同乗が拒否された後、金子重輔とともにペリー艦隊同乗を試みるが失敗、このときは自首して牢につながれている。萩に送られたのは憂国の情を幕府が評価していた節がある。が、萩では幕府の手前真っ青で、松蔭は野山獄につながれた。ここで1254冊読破、45篇の著述を完成させ、囚人に学問を講じた。もう獄の外に出ることはないのになんで学問をする必要があるのか問うたほかの囚人に対し、「知って死ぬのと知らずに死ぬのでは違う」と説き、囚人たちも学問に打ち込むようになった。

そんな状況から松蔭は獄を出され、実家で幽閉の身となる。元は叔父が主催していた松下村塾で近くの下級武士の師弟を教えることとなった。

話し下手だが講義は説得力があり、学びに来る人間にも師として学びたいという独特の姿勢もあり、松下村塾からは長州藩・明治国家をリードする人間が多数輩出された。

日米修好通商条約の無勅諚締結などには批判的で、老中阿部詮勝暗殺を計画。これが安政の大獄に引っかかり江戸へ搬送の上処刑された。

思想は突出していたわけではないが、教育観点では間違いなく成果を残した。山鹿流軍学者上がりの割りには、陽明学的素行一致への思考が見られる。幕末長州藩の導火線でもあった。まさに吉田松陰なくして明治維新はなかっただろう。