尼子 勝久(あまご・かつひさ)
生没年 | 1553~1578.7.3 |
---|---|
名前 | 孫四郎 |
官位 |
父誠久・祖父国久ら新宮党が尼子晴久に粛清されたのち、京都へ逃れて東福寺の僧となっていた。が、尼子再興を目論む山中鹿之助・立原久綱に擁立され還俗し、豊後の大友氏と連携しながら但馬・隠岐経由で出雲へ入国。出雲の大半を回復することに成功する。が、1570年毛利の反撃により敗北、1571年に織田信長を頼ることになる。1573年に因幡経由で出雲回復を狙うも失敗、1578年からは羽柴秀吉の中国征討軍の中で活躍することとなる。上月城を守るも毛利の大軍に包囲される。織田信長の撤兵命令が羽柴秀吉に下り、孤立した上月城は落城、尼子勝久は若い命を散らした。
山中鹿之助が月に願ってまで与えられた七難八苦である。尼子義久はまだ存命しているのにとも思うが、人間には受け入れられぬこともあるということだろう。