安国寺 恵瓊(あんこくじ・えけい)
生没年 | ?~1600.10.1 |
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名前 | 竹若丸、瑤甫、一任斎、正慶 |
官位 |
安芸守護武田信重の遺児という。銀山城が毛利家に落とされた後、東福寺末寺の安芸安国寺に入る。1553(天文22)年、のちに東福寺十時となる竺雲恵心の法弟となる。恵心は毛利一族の帰依をうけていた。中央との連絡、和平交渉に従事しており、恵瓊もそれに加わっていくこととなる。1569年安国寺の住持となっている。
1573(天正元)年の上洛において「信長の代3,5年は持ちこたえるが、高転びにあおのけに転ばれる」「藤吉郎はさりとての者」と後の本能寺の変・秀吉の天下取りを予言するような報告を毛利に送っている。その後秀吉が毛利に攻めてくるが、高松城の戦いでは小早川隆景と連動して和平をまとめる。結果として秀吉の天下獲りに一助となった。そんなこともあり秀吉政権下で毛利家共々優遇され、伊予や安芸に知行をもらうこととなった。なお、広島の不動院、厳島、建仁寺、東福寺など豪壮華麗な寺社仏閣の新造・修復に寄与していたことは言及されない安国寺恵瓊の功績である。
秀吉の死後は、家康派の吉川広家と対立。吉川広家の工作により毛利家は関ヶ原本戦で戦わず西軍は敗れた。六条河原にて石田三成・小西行長とセットで処刑された。