朝倉 義景(あさくら・よしかげ)

生没年 1532~1573
名前 孫次郎延景
官位 左衛門督

朝倉家最後の当主。まず初期には加賀一向一揆との戦いに忙殺されることになる。朝倉宗滴により加賀半国を制圧することに成功するが、宗滴の病死もあり巻き返しをくらう。一度は和議を結ぶも、堀江景忠の謀反と連動し一向門徒は越前に侵入してくる。このときは足利義輝が殺され越前に来ていた足利義昭が和約を斡旋し、義景の娘と教如を婚約を成立させた。

足利義昭としてはここで恩を売って後顧の憂いを断ち、朝倉義景に武力上洛を期待していたのであるが、義景は嫡男を失っていたこともあり上洛する気ゼロであり、見切りを付けた足利義昭一行は美濃へ織田信長を頼ることになる。織田信長は2ヶ月で足利義昭を奉じて上洛し将軍にすることに成功している。

その足利義昭から上洛せよとの支持が来るが、義景は無視した。織田信長の越前征伐を喰らうがこのときは古くから友好関係にあった信長の妹婿・浅井長政の味方を受け織田軍を撤退させている。怒れる信長と姉川にて戦うが敗れる。しかし浅井・朝倉の勢力はまだまだ盛んで、京都を伺う勢いだった。一度は(信長の強い依頼により)義昭の斡旋で和睦しているが、しつこい浅井・朝倉軍の動きに味方の延暦寺を焼き討ちされている。ここでついに武田信玄が上洛、三方ヶ原の戦いで徳川家康を破り、足利義昭プレゼンツの信長包囲網はクライマックス…を迎えるはずだったが、朝倉義景は12月突如撤兵している。武田信玄はあきれているが、作家・隆慶一郎はこれを朝倉義景の「男の嫉妬」としている。

一息つくと止まらないのが織田信長小谷城に迫ってきたので援軍を出すも遠路は断ち切られ、織田軍の速攻により刀禰坂で敗れて一気に越前に攻め込まれる。一乗谷を放棄し、朝倉景鏡を頼って大野で再起を図ろうとするが、逃げた平泉寺で衆徒に攻撃され自刃。朝倉景鏡織田信長に裏切っていたのであった。

戦国時代きってのダメ野郎として名高い。無能な上司の典型例。一乗谷は現在史跡として整備されているが、周りを山に囲まれたその立地は要害堅固であると同時に、のどかで落ち着いていて人をダメにする環境という気もする。ワーカホリックの織田信長相手というのが更に始末が悪かったと言えよう。