足利 義稙(あしかが・よしたね)

生没年 1466~1523.4.9
名前 義材、義是
官位

足利義視の子。 先代の六角討伐の意志を継ぎ、1492年近江を制圧。 畠山義就の子・基家討伐のため河内に出陣する。が、その最中義稙が疎ましくなった日野富子の内示を受けた細川政元が明応の政変を起こし、足利政知の子・義澄が次期公方に擁立される。これにより奉公衆は瓦解、敗戦した義稙は竜安寺に幽閉される。その後越中へ逃れ神保長誠を頼る。北陸の兵を従えて近江坂本に着陣するも細川政元に敗れ周防の大内義興を頼る。大内軍の上洛により細川澄元は京を追われ、細川高国管領による新体制が完成する。が、細川高国・大内義興の専横に堪えきれず甲賀に隠遁、いったん京都に戻るも最後は阿波撫養で死す。

「流れ公方」と当時から呼ばれた、流浪の将軍。ここまで日本全国を流浪した将軍も珍しい。