今川 氏真(いまがわ・うじざね)
生没年 | 1538~1614.12.28 |
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名前 | 竜王丸、五郎 |
官位 | 上総介 |
今川義元の嫡男。善徳寺の会盟により北条氏康の娘を正室とし、1558年には国務担当が始まっている形跡もある。
1560年桶狭間の戦いで父義元が戦死。家督相続するも、松平元康が離反し三河勢力を失う。三浦義鎮と対立する瀬名・朝比奈・葛山各氏の対立が発生し、武田信玄が同盟破棄を通告する。上杉謙信の敵に塩を送るエピソードのきっかけとなる甲斐への塩留はこのとき行ったものである。
武田家の侵攻で駿府は一度落ち、掛川へ逃れる。掛川城は家康に囲まれ、北条との協議により遠江の家康への割譲、氏真の駿河帰還で手討ちとなった。が、駿府城は再び武田軍に攻められ駿河は完全に武田家が掌握、氏真は北条領に逃れる。北条と武田の同盟が1571年再度成立すると、氏真は北条領を追われることになる。
氏真はなんと家康を頼り、1575年には上洛、信長の前で蹴鞠を披露するなど、生けるレジェンドとして恥も外聞も無く生き残りの執念を見せる。最後は高家として品川に屋敷をあてがわれた。