上杉 顕定(うえすぎ・あきさだ)

生没年 1454~1510.6.20
名前 四郎
官位 民部大輔、右馬頭

越後守護・上杉房定の次男として誕生。関東管領上杉房顕の養子となる。1466年2月11日養父の死により13歳で家督相続する。当時の上杉氏は利根川を挟み古河公方との攻防が長期化し、武蔵国五十子(埼玉県本庄市)の陣に滞在していた。長尾景信により1471年古河城を攻撃し成氏を下総へ追いやったが、長尾景春鉢形城にて反乱、五十子の陣を襲い顕定は上野に逃れた。景春成氏と結び対立するが、1478(文明10)年顕定成氏は和睦し、幕府との成氏の対立も解消されることになる。

その後は扇谷上杉のとの対立に追われ、太田道灌亡き後の扇谷上杉と合戦を度々行っている。扇谷上杉には北条・今川の支援もあり、この過程において上杉氏の国力は低下していった。長尾景春のみならず、由良氏や長野氏への統制もきかなくなり、これを越後の軍事力でカバーしているのが現実だった。上杉房能が守護代長尾為景に殺されると、顕定憲房は報復のため越後侵攻を行う。為景を越中に追いやり府内にて越後支配を試みるが、信濃の国人が蜂起し越後に侵攻、1510年6月20日、越後長森原で戦死した。