上杉 景勝(うえすぎ・かげかつ)
生没年 | 1555.11.27~1623.3.20 |
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名前 | 喜平次、顕景 |
官位 | 参議・左近衛中将 |
父は長尾政景、母は謙信の姉。1564年父政景は急死し、謙信の庇護を受ける。謙信死後、真っ先に春日山城を抑え謙信時代の莫大な銭を抑える。その後武田勝頼を味方に引き入れることに成功し、上杉景虎に勝利する。上田以来の直臣を核とした支配体制にめどをつけた。織田軍が迫る厳しい状況で魚津城も落ち絶体絶命だったが本能寺の変で事なきを得た。その後羽柴秀吉に降り、その軍事力を背景に下越の新発田氏、佐渡の本間氏を圧倒した。その後も豊臣大名として小田原の陣や朝鮮出兵に従軍した。
1598年越後から会津に国替えとなった。120万石の大名となり、五大老を小早川隆景から引き継いだ。
豊臣秀吉死後、徳川家康から謀反の動き有りと動員をかけられる。が、石田三成が中央で挙兵、徳川家康の率いる東軍は小山から引き返していった。最上・伊達と戦うも関ヶ原の戦いの結果を受けて撤兵。戦後、領土を取り上げられ米沢30万石の大名となった。大坂の陣には徳川方として従軍。直江兼続とともに家臣も減らさず米沢での新体制確立に尽力した。