上杉 謙信(うえすぎ・けんしん)

生没年 1530.1.21~1578.3.13
名前 長尾景虎、上杉政虎
官位

1536年父・長尾為景は兄・晴景に家督相続の上死去。越後国中が守護代長尾家に対抗しており、厳しい情勢であった。虎千代と呼ばれていた幼少の謙信は林泉寺に預けられ養育される。晴景は長尾政景と和睦するなど安定に努めたが、再び守護に擁立した上杉定実が伊達稙宗の三男(のちの実元)を養子に迎えようとして越後は再び荒れることになる。このとき背いた黒田秀忠を長尾景虎が討ち武名が上がった。が、晴景・政景との対立を引き起こすも上杉定実の斡旋で体の弱い晴景に代わり景虎が家督相続することになる。

長尾政景を降伏させ、武田信玄対策で川中島出兵するなど精力的に活動していた国主景虎であったが、あくまで国衆は独立した一領主であり、弛緩した空気が家中には溢れていた。執政方針にも家臣間の対立が発生し、嫌気がさした謙信は27歳にして高野山に出家してしまった。家臣一同誓詞を入れてようやく謙信は復帰する。荒療治により家中は引き締まった。

1557(弘治3)年、北条氏康に追われた関東管領・上杉憲政が越後に謙信を頼ってくる。上杉氏の家督と関東管領を継いだ謙信は小田原城包囲に出兵する。関東諸将が集まり大軍であったが、長期の遠征は難しく鶴岡八幡宮参詣と関東管領就任セレモニーを行って越後へ帰国した。その後は川中島に出陣、信玄との一騎打ちの逸話が残される第四次川中島の戦いを戦った。結局川中島は信玄が抑え、戦略優勢をこの戦いで得ることは出来なかった。信玄今川氏真を攻めたことをきっかけに謙信は北条と和睦。氏康の子を養子とした(上杉景虎)。

当初は織田信長と誼を通じていたが、1576(天正4)年には断交のうえ足利義昭毛利輝元・石山本願寺と同盟。織田方となった七尾城を落とし、手取川の戦いで柴田勝家の率いる織田軍を破る。関東に出陣しようとしていた矢先、脳溢血で急死。死後、家督相続者を決めていなかったことも有り、養子景勝景虎の間で御館の乱が発生した。

関東と信濃、北陸をとにかく戦争に出陣し続けていた印象がある。直江津からの運上もあり、ひたすらに戦争を繰り返すことにより上杉家中はまとまっていった。とにかく伝説化したこともあり、「義」を重んじる戦国武将として神格化された感が強い。