織田 信賢(おだ・のぶかた)
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尾張守護の斯波氏の守護代である織田家は、上四郡と下四郡に分裂していた。信賢は上四郡を治める守護代の家柄で、伊勢守の受領名を受け継いでいた。ちなみに信長は下四郡を治める織田家のそのまた奉行の家柄である。 当初織田信安が城主だったが岩倉城を去り、嫡男の織田信賢が岩倉城主となった。が、弟の織田信家と勢力争いを引き起こし、1558年に斎藤義龍とともに信長攻撃したのを逆手に浮野で却って敗れ、1559(永禄2)年3月には岩倉城を失っている。これにて信長の国内統一がなったとされている。
ちなみに妻の内助の功で有名な山内一豊の父・山内盛豊が仕えていたのが織田信賢の家である。山内盛豊は岩倉落城に殉じている。