織田 信長(おだ・のぶなが)
生没年 | 1534~1582.6.2 |
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名前 | 吉法師、三郎、上総介 |
官位 | 弾正忠、参議、権大納言、右近衛大将、内大臣、右大臣 |
織田信秀の嫡男。
若い頃は異様の風体で粗暴な振る舞いも多く、「尾張の大うつけ」の異名を取る。父・信秀葬儀時の憤怒の昇降、守役平手政秀の自刃など逸話多数である。が、正徳寺の会見で舅・斎藤道三に「わしの子はいずれ轡を信長の処につなぐ」と見抜かれたように次第に本領発揮を開始する。
1555年、清洲城の織田信友を滅ぼし清洲に本拠を移す。その後・反乱を起こした弟信行を誅し、織田信賢を滅ぼし尾張統一を実現する。
その間、美濃の舅・道三が子の義龍に滅ぼされ美濃との同盟が消失する苦しい状況であったが、尾張侵攻しに来た今川義元を桶狭間にて討ち取ることができ、1562年には三河の松平元康と清洲同盟を締結。これにより美濃・伊勢攻略に専念することが出来るようになった。小牧山に本拠を移し、調略を薦めた上で1567(永禄10)年稲葉山城を落とすことに成功した。岐阜城と改め、「天下布武」の朱印の利用を開始した。
その後足利義昭を奉じて上洛、将軍に挨拶に来ない越前朝倉氏を攻めるが、妹婿の浅井長政がこれに抵抗。長く厳しい信長包囲網との戦いが始まった。姉川にて浅井・朝倉連合軍を破るも摂津三好衆、比叡山の加勢もあり、苦戦。信長は比叡山焼き討ちを行い敵対勢力への断固とした対決姿勢を鮮明にする。武田信玄が兵を起こすが途中で死去し退却。これを機に朝倉・浅井を滅ぼし足利義昭を追放し室町幕府を滅ぼした。
伊勢方面は滝川一益の調略もあり確実に領土化することに成功していたが、伊勢一向一揆に苦しめられる。講和を装って油断させながら皆殺しを行うジェノサイド戦術に打って出た。朝倉氏滅亡後の越前一向一揆も同様に厳しい対処で臨み、越前は柴田勝家を配し北国の押さえとした。
武田信玄の子・勝頼が三河に出てきたので、長篠の戦いで馬防柵と足軽鉄砲隊を効果的に使いこれに大勝。このタイミングで嫡男信忠に濃尾2国と岐阜城を譲り、安土城を建設し天下統一事業の総仕上げに入っている。手取川の戦いで一本取られた上杉謙信も亡くなり、毛利輝元も第2次木津川の戦いで水軍を封じ、なんとか石山本願寺を大坂から退去させる講和を実現した。
その間も松永久秀や荒木村重の謀反を抑え、丹波や播磨を平定するなど勢力拡大を進めた。武田氏を滅ぼし、毛利氏と最終決戦すべく京都滞在中に明智光秀の謀反に遭い本能寺にて自刃した。
現代社会においては織田信長の人気は高い。室町旧体制を打倒した革命者、後白河法王も手を焼いた比叡山や手の付けられない一向宗との徹底対決、楽市楽座に代表される経済振興などが評価されることが多い。実際には旧体制との妥協、神社への寄進、京七関の容認といった現実路線、楽座令の疑問視や桶狭間奇襲神話の崩壊・鉄砲三段撃ち伝説の瓦解など信長像は虚実ない交ぜな面も多々あり、議論は止むことが無い。しかしながら、合理性を追求した思考ロジックはシンプルそのもの。勝てる戦争しかしないと思いきや、機を見ると尾張の弱兵など嘘ばっかりな旗本軍団を使った速攻をたびたび(桶狭間、刀禰坂、天王寺)見せている。歴史学会が「信長までは中世、秀吉からが近世」と宣ってもなお、信長が魅力的なのはそのあたりにあるのだろう。
さて、現代社会においては「織田信長のようなリーダー、出でよ」という声が喧しい。私も嘗ては言っていた。しかし、織田信長型リーダー待望論は食指気味の感がある。血縁の尊さは昨今の同族企業の比ではない。下剋上の戦国時代で信長も家臣に相当気を遣っていた節は見られるが、主君は主君であった。要因が指数関数的に増えた21世紀においては総論賛成各論反対の嵐に信長は押しつぶされるだろう。ふわっとした民意の前に合理的リーダーシップは無力である。あとは手を握ってくれた、目を見てくれた、話しかけたくれたといった情緒がすべての世界である。織田信長のようなリーダーが出たら間違いなく独裁だと全否定に現代人は走るだろう。そもそもコンプライアンス全盛の昨今、うつけ吉法師は存続を許されないだろう。
そもそも、流血無き思い切った改革、革命などまやかしである。現代社会が流血が必要なところまで追い詰められていると思うのは、現代人の驕りだ。過剰評価だ。我が身が可愛いのは分かるが、少しは謙虚になったらどうか。
現代人はいい加減目覚めるべきだ。白馬に乗った王子様は現れないし、青い鳥などいない。織田信長を潰すシステムを甘受しながら織田信長出でよだなんて悪い冗談である。現実逃避気味に強力リーダーが現れるといった妄想をそろそろやめるべきだ。