織田 信孝(おだ・のぶたか)
生没年 | 1583~1558 |
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名前 | 三七、三七郎 |
官位 | 侍従 |
織田信長の三男。母は坂氏で信忠・信雄の異母弟。信雄よりは20日出生が早いが届け出が遅く弟となったという説がある。
1568(永禄11)年、神戸具盛の養子となり神戸家を継がせている。伊勢一向一揆鎮圧、越前一向一揆平定、雑賀攻め、荒木村重攻めに従事。織田家連枝の中では信忠・信雄・叔父信包に次ぐ4番目で、京都所司代・村井貞勝の補佐業務も行っていたようだ。その後四国攻めの対象として任じられるも本能寺の変が発生し兵が逃げてしまう。中国大返しをしてきた羽柴秀吉とともに山崎の合戦で明智光秀を撃破することが出来た。
清州会議では美濃を得た。柴田勝家は後嗣として信孝を推したという。織田家後嗣の三法師は安土に置くという話だったが、勝家・一益・信孝の結託のもと岐阜から出さずにいた。このため秀吉は岐阜城を囲ったため、そこで三法師を引き渡した。1583年2月、一益・勝家の戦線拡大を見て岐阜城で再度挙兵、が、賤ヶ岳の戦いでの勝家敗北を受け城を囲んだ信雄は開城を薦めた。尾張野間の地で自刃。
入信することはなかったが、宣教師の間で評判良く、信長の子の中ではキリスト教に理解を示していたようである。