大久保 長安(おおくぼ・ながやす)

生没年 1545~1613.4.25
名前 藤十郎、十兵衛
官位 石見守

武田信玄お抱えの猿楽師・大蔵太夫十郎信安の次男。信玄に経理の差異を見抜かれ登用、土屋昌次の与力となる。1582年徳川家康に仕え大久保忠隣の庇護を受ける、主に検地を担当、伊奈忠次の補佐で業績を上げた。家康関東入り後は八王子に陣屋を構える、関ヶ原の戦いでは中山道郡の小荷駄奉行を務めた。その後、甲州代官など各地の代官として120万石相当の施政を担当、中でも石見銀山奉行等鉱山開発においては水銀流し(アマルガム法)の採用で歴史的な増産に成功した。他にも林業振興・一里塚や伝馬宿設定による交通網整理、江戸駿府・名古屋の築城工事と活躍、家康の財政ブレーンとして成果を上げた。16212(慶長17)年駿府にて中風を患い翌年69歳で死去。が、生前の金銀隠匿・幕府転覆の陰謀で遺児7名は死罪、多くの連座者を出した。キリシタン接近や伊達政宗松平忠輝関連の企みも噂される。反対勢力による追い落としであったことは間違いなさそうである。