太田 道灌(おおた・どうかん)
生没年 | 1432~1486 |
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名前 | 鶴千代、太田資長、太田持資 |
官位 | 左衛門大夫、備中守? |
父は太田資清(道灌と同じく歌人としても名高い)。1455年頃家督を相続する。扇谷上杉の家宰として活躍する。小鹿範長支援のため駿河に下向すして北条早雲と対峙する、長尾景春の乱に当たり幾度も戦闘を行うなど、武蔵・相模で名をなした。江戸城・河越城・岩槻城の築城に携わり築城の名手と言われた。中でもその後江戸幕府が置かれ世界大国となった日本の首都が置かれることになる東京の礎として江戸城築城は特筆されるだろう。実際には寒村であったが、豊臣秀吉に目を付けられる程度の立地を中世にして築城したわけだ。 鎌倉五山に入っての学問励行、和歌の腕前など文化面でも名高い。だが、その名声に疑心暗鬼になったか、上杉定正に糟屋(神奈川県伊勢原市)にて殺害される。「当方滅亡!」と叫んだとされるが、殺されてもなお扇谷上杉を当方と認識するとは、当事者意識の強い扇谷上杉にとってかけがえのない人材であっただろう。有能社員のクビを(リアルに)切った扇谷上杉家は当然のごとく滅亡した。