大友 義鑑(おおとも・よしあき)

生没年 1502~1550.2.12
名前 塩法師丸、次郎、五郎、親安、親敦
官位 修理大夫

1518年父・義長の跡を受け家督を継ぐ。豊後・筑後の守護職を兼任していた大友氏は、肥後・菊池氏に弟を送り込み(菊池重治)、豊前守護を兼ねていた大内氏の筑前での影響力を排除すべく秋月種時を攻撃するなど、支配基盤の強化に努めた。大内氏との抗争は幕府の仲介が何度もあったにもかかわらず不調に終わり、長期に渡った。弟・菊池重治は大友家に敵対し、栂牟礼城城主佐伯惟治を味方に付けた。義鑑は佐伯惟治を討ち、後に肥後国守護も補任されることになる。

伊予の西園寺公広を攻めるなど、戦国大名としては拡大基調にあったが、義鎮廃嫡宣言に端を発する二階崩れの変で命を落とすことになる。