大内 義隆(おおうち・よしたか)
生没年 | 1507.11.15~1551.9.1 |
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名前 | 亀童丸 |
官位 | 周防介、左京大夫 |
大内義興の長男。1528年父の死により家督を継ぐ。陶興房の補弼により大内家の政情は安定していた。周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸の守護を兼ねており、日明貿易による莫大な収益を抑えていた。肥前に出兵し松浦党を味方に付け、龍造寺氏を守護代とし、少弐氏を抑えた。あわせて調停工作により大宰大弐の官を得て大義名分を整えた。周防・長門ほどの安定を見ない安芸については、毛利元就の吉田郡山城を攻める尼子氏を後詰めにて追い払い、安芸武田氏を攻めこれにより安定を見た。
順風満帆であったが、ここで1542(天文11)年尼子氏攻めを行ったところ越年してしまい効果が芳しくなく、最終的には養嗣子大内晴持を失う大敗となった。ここでやる気が出なくなったのか、学問・芸能に耽り文治派の台頭を招くこととなる。山口は応仁の乱以降の文化習熟が最高潮となり、ザビエルへのキリスト教布教の許可もあり国際都市のしての側面も大きくなっていた。陶隆房と相良武任の対立は決定的となり、陶隆房謀反は公然の秘密となった。しかし、義隆は動かなかった。多額の経費が公卿・芸能者に充てられており、最後は内藤・杉といった古来の大内重臣から殿中奉仕の者や庶民に至るまで陶隆房に味方したという。8月20日から起こったクーデターは順調に進んでしまい、十余名で大寧寺に追い詰められ自刃。来合わせていた公卿は皆殺されたという。