吉川 元春(きっかわ・もとはる)
生没年 | 1530~1586.11.15 |
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名前 | 少輔次郎 |
官位 | 治部少輔、駿河守 |
毛利元就の次男。1547年吉川興経の養子となる。吉川家当主となり、芸備両国制圧に奮戦する。厳島の戦いでは弘中隆兼を倒す奮戦。その後は吉川家と縁が深い石見経略に活躍する。月山富田城を落とした後は、伊予から筑前まで幅広く転戦した。が、織田方の羽柴秀吉には鳥取城・備中高松城と苦戦する。講談の世界では信長死後、引き返す羽柴秀吉の追撃を主張して、小早川隆景にたしなめられる姿が良く書かれる。秀吉政権下では吉川元長に実権を譲り、あまり矢面に立たなかったが、九州征伐の時は秀吉たっての要望で出陣することになる。が、小倉で戦没する。
月山富田城包囲中に太平記40巻を書写したエピソードは名高い。文化人の側面も忘れない武闘派だった。妻は熊谷信直の娘だが、稀代のブスだったらしく、孔明の嫁取りになぞらえた嫁取りエピソードが語り継がれている。ブスとでも結婚出来るだけリア充勝ち組と思うのは筆者の僻みだろうか。