九戸 政実(くのへ・まさざね)
生没年 | ?~1591 |
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名前 | |
官位 | 左近将監 |
九戸信仲の子。1573(天正元)年と1582(天正10年)に小野寺宗道を攻め葛西氏領に追ったことが特筆される。武の点では南部家中で一目置かれる存在だった。元々国衆が相互に独立しているような奥州にあって、南部宗家(三戸南部氏)との関係は主従でもなかった。南部信直は石川家から入り南部晴政の子晴継の跡を継いでおり、晴継毒殺説も飛び交い、政実は実弟で南部晴政の二女を妻としていた実親を推したこともあり、南部家と九戸家の関係は最低だった。津軽為信の離反が起きるが、九戸政実は連携すらしようとした節がある。大崎葛西一揆を受け九戸政実は九戸城に籠もった。が、豊臣政権最初の反乱と見なされ、泣きついた南部信直に豊臣秀次を総大将とする6万の大軍が寄越した。その中には津軽為信もおり、戦いではアイヌの毒矢まで使われた。政実は降伏し、助命条件だった割に栗原郡三の迫で処刑された(安達郡二本松とも)。妻子は皆殺しにされた。
九戸氏と条件が近かった八戸氏は南部信直に尽くしたが、その後いいように遠野に移され苦労をしている。一方で、近世南部氏が比較的中央政権に近い支配体制を取ることが出来たのはとなりの伊達氏と好対照である。屈服しないことを選ぶか存続を選ぶか。辛い選択の末、屈服をよしとしなかったことを選んだケースであっただろう。