佐々 成政(さっさ・なりまさ)
生没年 | 1539/1536/1516~1588閏5.14 |
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名前 | 内蔵助 |
官位 |
佐々氏の祖は佐々木源氏盛綱で、孫氏綱が上総国佐々荘を領したことから佐々姓になったという。
佐々盛政の次男(兄隼人正は桶狭間で戦死)。黒母衣衆の一人として織田信長に従い各地を転戦する。長篠の戦いでは鉄砲奉行を務めている。前田利家・不破光春と越前二郡を賜り、後に越中富山城に移る。本能寺の変後の賤ヶ岳の戦いでは対上杉から動けず、柴田勝家滅亡後も金沢へ赴きそのまま上杉取り次ぎ役を秀吉に委ねられている。
小牧・長久手の戦いでは信雄・家康連合につき、前田利家方の末森城を囲んでいる。が、秀吉との和議を不服として冬の日本アルプス越え(佐良峠、さらさら越え)を敢行して家康に直談判しに行くが良い結果は得られなかった。結果、秀吉の攻撃を受け信雄の取りなしで降伏。新川一郡だけ与えられた。九州攻めに転戦、肥後国国主となる。秀吉は3年間検地不可、一揆発生を慎めと訓戒したが、成政はその条件を守らず肥前の国人は反乱、隈本城は一揆に囲まれる。小早川隆景・立花宗茂の援軍で鎮圧出来たものの秀吉は激怒。成政は切腹させられた。元から成政と肥後国人をセットで整理しようとい秀吉の策略だったとも言う。