島津 義久(しまづ・よしひさ)
生没年 | 1533~1611.1.21 |
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名前 | 虎寿丸→又三郎忠良→三郎左衛門義辰→義久 |
官位 | 修理大夫 |
島津貴久の長男。永禄年間末に薩摩大口の菱刈氏を下し薩摩を掌握すると、1574年2月には伊地知氏・肝付氏を下し大隅を併呑、その後日向に進出し、1538(天正6)年耳川の戦いで大友軍を下し日向を掌握、1581(天正9)年には相良氏を降し肥後の覇権を確定、1584(天文12)年3月に龍造寺隆信を討ち取り肥前での優位を確定した。
九州統一の勢いだったが、豊臣秀吉の影が九州に迫っていた。大友宗麟は豊臣秀吉に泣きついており、秀吉も島津を快くは思っていなかった。筑前・豊後の制定を急ぐが、豊後の攻略には時間を要し、岩屋城の戦いでは自軍も損害は大であった。羽柴軍が九州に上陸し、1587(天正15)年5月6日に薙髪し秀吉に降伏した。結果として島津家としては薩摩・大隅・日向の一部を安堵された。家督は義弘長男の久保後継となったこともあり、朝鮮出兵などの実務は弟・義弘が見ていくこととなる。
1594(文禄3)~1595(文禄4)年には太閤検地が領内で実施された。近代以前唯一の中央権力による薩摩検知であった。このときの石高は実高の2倍近かったという。関ヶ原の戦いでは弟・義弘の動きとは別に家康とも通じる動きを見せながらも、関ヶ原本戦で敵中突破して帰ってきた義弘の処分を武力を背景に拒否する姿勢を見せ、本領安堵。薩摩藩を確定し死去。