陶 晴賢(すえ・はるかた)

生没年
名前 五郎、陶隆房
官位 中務権大輔

陶興房の次男。長男については動向は伝わっていない。一説は美少年で大内義隆に寵愛されたとも言う。1539年家督相続。大内家中の武闘派家臣として、安芸出陣で活躍する。その後の出雲攻めでは瀬戸山城を攻略するなど引き続き活躍するが、大内軍としては成果が上がらず最終的には敗走する。その後文事に耽る主君大内義隆や文治派家臣の相良武任と対立。幾度も謀反の噂が流れるも処分はなされず、仁壁・今八幡両者例大祭参道で大内義隆を襲撃するとの風説により参詣中止が行われるに至り、弁明は了承されるも所領周防で長期不出仕となる。そこから隆房の謀反は公然の秘密となり、1551(天文20)年8月29日、陶隆房軍は山口市中を制圧し、9月1日大内義隆は自害する。陶隆房のプロパガンダは強力で、土民から大内代々の重臣まで味方し、大内殿中や文治派家臣居宅は荒らされ、公家衆は全員殺されたという。

大友から大内義長を迎えこれを奉じ、新体制の大内家で権力を掌握するが、まず1553(天文22)年に石見の吉見家が背き、1554(天文23)年には当初は味方寄りだった安芸の毛利元就も反陶にまわった。1555年厳島で毛利元就軍に敗れ、10月1日未明に自刃。