伊達 稙宗(だて・たねむね)

生没年 1488~1565.6.19
名前 次郎、直山、受天
官位 左京大夫、従四位下

伊達尚宗と上杉定実娘の間に生まれる。1517年足利義稙から一字を受け稙宗と名乗る。1522年には陸奥国守護となる。1536年制定した塵芥集は分国法として名高く、裁判権を自身の下に置き、「棟役日記(天文4)」「段銭帳(天文7)」とあわせ領国内の家と土地を把握することを進めた。あわせて政略結婚を促進し、戦国大名としての地位を確立していった……ように見えたが、三男伊達実元の越後守護・上杉氏への養子縁組に嫡男・伊達晴宗が異を唱え晴宗は稙宗を幽閉、天文の乱(伊達氏洞の乱)に発展してしまう。中野宗時ら棟役・段銭課徴強化といった稙宗体制に不満な家臣が伊達晴宗を奉じたものだった。おまけに南東北は縁戚関係がごちゃごちゃしており、混乱は南東北じゅうに波及した。1548(天文17)年に将軍・足利義輝の仲裁で和解、稙宗は晴宗に家督を譲り隠居することになる。

戦国時代前半における典型的やり手武将。改革をすると必ず犠牲になるトップが出るということである。このツケは子・晴宗、孫・輝宗が払うことになるが、伊達家独特の知行制に繋がり、政宗以降の子孫にも高く付くことになった。