高橋 紹運(たかはし・じょううん)
生没年 | ?~1586 |
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名前 | 鎮理、鎮教、高橋鎮種 |
官位 | 三河守 |
吉弘鑑理の子。大友一族なのに謀反してばっかりの高橋鑑種の跡を受け高橋家を継ぐ。1579年の秋月種実らの謀反を完全に押さえ込むことが出来ず、立花道雪共々苦労しながらの筑前統治に励む。1584(天正12)年には龍造寺氏の動きが激しい筑後へ遠征、筑紫広門の娘と子・統増の婚儀により安定を得た。
1586(天正14)年には島津軍が筑後に進出する。岩屋城に居る紹運へ降伏を勧めるも、偽装工作で引き延ばしたあげく降伏を拒否する。1ヶ月にわたって島津軍の猛攻を兵700で耐えるが、7月27日夕刻に岩屋城は落城した。城兵は一人残らず玉砕したという。島津軍は大打撃を受け、立花城の立花宗茂を攻略することが出来ず、ここに島津氏の九州統一の野望は潰えた。豊臣秀吉はこの働きを絶賛し「乱世の華」と称えている。
日本史上における最も有効な玉砕戦術であっただろう。が、これは豊臣軍という日本最大の後詰め前提で大友家存続を目的のために時間稼ぎする目的が明確だったことを記しておきたい。