武田 信虎(たけだ・のぶとら)

生没年 1494.2.11~1574.3.5
名前 五郎、信直
官位 左京大夫、陸奥守

1507年、父信縄の跡を受け14歳で家督相続。父・信縄は弟・信恵と家督争いを経て家督相続をしており、内訌は再燃した。が、信恵のみならず味方した一族の岩手・栗原両氏、都留郡の小山田氏を悉く打ち破り家内地盤の強化を行った。

1515(永正12)年、甲府盆地西部の大井氏が今川氏と結びと対立するも和睦、大井氏から嫁を娶った。石和から躑躅ヶ崎へ本拠を移し、城下への集住を命じた。刃向かった諸族は合戦で屈服させている。

福島正成と戦い、北条氏と戦い、相次ぐ対外戦争に諸将の不満は高まっていった。飯富氏の謀反を平定する一方、扇谷上杉から嫡男・晴信に嫁を迎えて北条・今川との緊張を高めたりしている。

が、今川氏親が氏に花倉の乱で義元が勝利すると甲駿関係は一気に改善、長女を義元に嫁がせることになる。1541(天文10)年、娘婿の今川義元と会談しに駿河に向かった後嫡子晴信によって国境を兵で塞がれる。重臣たちが晴信を担ぎ上げてクーデターを起こすに至ったのである。

信虎は駿河で隠棲した。1563年、桶狭間の戦い後信玄の駿府侵略を画策して今川氏真に追い出されての地は諸国を流浪。最後は信玄より長く生きて信濃で死去。