滝川 一益(たきがわ・かずます)
生没年 | 1525~1586.9.9 |
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名前 | 久助、左近尉、左近将監、入庵 |
官位 | 伊予守 |
滝川一勝の子。近江甲賀郡出身という。鉄砲の特技で信長に仕える。桶狭間の戦い後は、伊勢方面攻略を行っていた。1569年大河内城攻撃の功で安濃津・渋味・木造の三城を任せられている。伊勢一向一揆の殲滅後は北伊勢5郡を任せられている。九鬼嘉隆と協力しての第二次木津川口の戦いでの毛利水軍撃退、甲州攻めを目前にしての北条氏の取り次ぎ、伊賀討伐などで活躍。武田攻めの後上野一国と信濃佐久・小県を与えられ厩橋城城主となった。なお、本人は名物の珠光小茄子を所望していた書状が残っている。数え58歳にしては慣れない遠国、職務は引き続き重かったようだ。
が、ここで本能寺の変が発生。神流川の戦いで北条氏に敗れ清州会議にも間に合わなかった。
賤ヶ岳の戦いでは雪に阻まれ動けない勝家をサポートしたが敗れ、秀吉に降伏。小牧長久手の戦いでは尾張蟹江城を攻略するが返り討ちに遭う。秀吉の怒りを買い出家、越前大野に蟄居した。長子の一忠は追放されたが、次子の一時に1万2000石が与えられ、自身も隠居領3000石を領した。茶人としても知られ出家後に秀吉を招いて茶会を催したりもしている。