徳川 秀忠(とくがわ・ひでただ)
生没年 | 1579.4.7~1632.1.24 |
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名前 | 長松、竹千代 |
官位 | 蔵人頭、侍従、少将、参議兼右近衛中将、権中納言、権大納言、右近衛大将、内大臣、右大臣、太政大臣 |
家康と側室・西郷氏の間に生まれる。兄・信康は切腹、次兄・秀康は養子となったことから、世子となる。関ヶ原の戦いでは上田城で真田父子相手に痛い目をみる。大津城で家康に会ってもらえなかったりもしたが、2代目の征夷大将軍となった。家康死後は実権を握り、福島正則から本多正純まで、外様譜代関わらず大名改易を促進した。その数41名。その他、娘・和子を入内させての紫衣事件での後水尾天皇退位、外国船来攻の長崎・平戸限定、キリスト教禁止の促進などの政策を進めた。家光に将軍を譲り大御所となる。1632年死没。芝の増上寺に葬られた。
隆慶一郎作品での悪役ッぷりは有名。徳川家康が影武者でも(『影武者・徳川家康』ほか)実父でも(『捨て童子松平忠輝』)悪役である。戦国時代にかかっている人間では、「父親と妻に従順キャラ」の一方、「数多くの陰湿な施策を進めた」2面性を持つ人間は珍しいのであった。