徳川 家康(とくがわ・いえやす)
生没年 | 1542.12.26~1616.4.17 |
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名前 | 竹千代、次郎三郎元信、松平元康 |
官位 |
松平広忠の長男。長い人質暮らしを送る。今川麾下で岡崎衆を連れ合戦に出るようになり、桶狭間の戦いの前哨戦で敵中にあった大高城に兵糧を入れることに成功している。
桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、岡崎に居座る。氏真に敵討ちを進言しつつ動かないことから織田との同盟に踏み切る。1563(永禄6)年9月から翌年2月まで続いた三河の一向一揆は、譜代家臣も多く一揆に付く家康最大の試練であった。が、一向寺寺院の不入権を否定することも成功し、荘園制由来の旧体制の打破に成功し戦国大名化が一揆に進んだ。1564(永禄7)年には吉田と田原を制圧し、東三河も支配下に入れている。その後武田信玄と呼応して今川領に進出、1570年には曳馬に本拠を移した。一方、信長の天下統一事業への協力も加速し、金ヶ崎の戦い、姉川の戦いなどでは家康自身も参戦している。武田信玄の上洛に当たっては、浜松城をスルーしていく信玄に耐えられず出撃して三方ヶ原で見事な敗戦を喫す。家臣の1割(約800人)を失い、このときの肖像画を書き残させる逸話がつくられたほどの敗戦だったが、「あの信玄を向こうに戦った」戦績は生涯の財産となった。その後、信玄死後長篠の戦いで形勢逆転に成功するも、武田との対峙は一進一退、信長の甲州討伐まで続いた。その間に嫡子信康を切腹させている。
本能寺の変発生時は信長饗応として堺にいた。伊賀越えで三河へ戻り、明智討伐が片付いたのを受け甲信を抑えに向かっている。北条との牽制もあったが上野を譲り和睦した。その後、信長遺児である信雄の要請に従い、秀吉と小牧長久手の戦いを争っている。戦には勝ったが秀吉に信雄の単独講和をされ、妹・旭の輿入れや老母・なかの人質送付を受け秀吉に臣従した。小田原の役後は関東へ転封となる。
秀吉死後、石田三成をはじめとする奉行衆と対立するが関ヶ原の戦いで優勢を決した。1603年征夷大将軍に補任。1605年には嫡男秀忠に将軍職を譲り徳川体制を明確にした。大坂の豊臣秀頼に対しては当初融和策を採ろうとした節もあるが、結局は大坂の陣で滅ぼしている。元和偃武をなし、1616年駿府にて大往生した。