豊臣 秀長(とよとみ・ひでなが)
生没年 | 1540.3.2~1591.1.22 |
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名前 | 小竹、木下小一郎、羽柴長秀、羽柴秀長 |
官位 | 美濃守、参議、権中納言、権大納言 |
豊臣秀吉の異父弟…とされているが、実際には同母弟ともいう。秀吉の片腕として活躍した。なお諱は1584(天正12)年9月になるまで「長秀」である。
伊勢長島攻めでの総代、但馬攻略、鳥取城攻めで活躍。本能寺の変の後は賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いにおける伊勢戦線、紀州攻めで活躍している。四国攻めでは総大将を務め四国平定を果たした。大和・紀伊・和泉・伊賀の一部を与えられ、旧態依然とした大和を無難に収めている。九州平定でも出陣したが、その頃から病気がちになる。1591年没。
大友宗麟に書き送った「公議のことは秀長に、内々のことは千利休に相談せよ」という文言は有名。滅多にいない名補佐役であった。一方で蓄財に熱心で、多門院日記に材木を大坂で売らせて代金を着服し秀吉の不況を買った話が記されている。秀長死亡時多数の在勤が大和郡山城には残された。が、とにかく羽振りが良かった兄と一緒に苦労してきたがためがゆえの職業病というべきか。
兎角、秀長の死を持って豊臣政権は安定感が全くなくなり、諸大名ににらみをきかせる存在も居なくなったのである。