長尾 景春(ながお・かげはる)

生没年 1443~1514
名前 孫四郎、四郎右衛門、右衛門尉、伊玄斎
官位

長尾景仲・景信と祖父の代から山内上杉の家宰として活躍してきたが、景信の死後景信弟の長尾忠景が家宰となった。これに不満の景春は古河公方足利成氏と組み鉢形城に籠城、上杉顕定に背いた。長きにわたる反山内上杉生活が始まった。 上杉顕定扇谷上杉定正の陣を攻撃し、顕定は敗走する。祖父の代よりの西上野の国人が景春に味方しており、武蔵や相模の武士も一部同調し3000人の味方を得ていた。

山内上杉・扇谷上杉の共同で景春に当たることになった。太田道灌が出てきて、石神井城の豊島氏を没落させ、足利成氏・上杉の和睦を成立させ、1478(文明10)年太田道灌の急襲により鉢形城は落城、成氏・景春の勢力はいったん消滅する。

が、景春の乱が終息した途端両上杉の対立が再開され、太田道灌は暗殺される。景春は扇谷上杉側で戦う。1507年長尾為景を討つために上杉顕定が出陣すると為景に呼応して白井城を落とした。和議にも応じず、最後までは山内上杉を貫いた。

人の恨みは怖い。