父・長尾能景が1506年戦死し越後国守護代となった。1507年、守護上杉房能を自殺に追い込み上杉定実を擁立、1509年房能の兄・関東管領上杉顕定の攻撃で越中に逃れるも翌年顕定を自刃に追い込んだ(永正の乱)。能登守護の畠山氏・越中守護で紀伊に居た畠山尚順と連携し、越中守護代神保慶宗を討った。その後は越中一向一揆や越後国内の国衆との抗争を繰り返した。戦国大名化は定実の盛り返しもあり、道途中であったが、長尾氏の基盤整備に尽力した。