畠山 尚順(はたけやま・ひさのぶ)
生没年 | 1475~1522.7 |
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名前 | 尚慶、卜山、勝仙院竜源 |
官位 | 尾張守 |
父・畠山政長が正覚寺城で自刃すると、紀伊に逃れて再起を図る。越中に逃れた足利義稙と呼応し、畠山基家(義豊)を河内にて滅ぼした。しかし、義豊の子畠山義英と細川政元連合軍に敗れ再び紀伊へ逃れた。紀伊を根城に和泉や河内を伺っていたが、最後は畠山義英と講和し河内を半国ずつ所領した。
1508年の細川政元暗殺をきっかけに細川澄元と細川高国が争うようになり、尚順は細川高国側で戦う。足利義稙が大内義興に奉じられ上洛すると和泉で迎え上洛する。家督を子・稙長に譲るが、居城としていた紀伊広城で家臣に背かれ淡路にて死去。